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顧客満足の複雑さ 202( プロの真価 )

         顧客満足の複雑さ 202「プロの真価」

大阪万国博覧会も残すところ2週間弱となり、閉幕までのすべての日が予約で満杯状態らしい。開幕直後に、ひとまず一回でも行っておいてよかった、感はある。人気パビリオンを見ることはかなわなかったが、それでも万博のお祭り感は味わえた。開幕前のメディアの悪口雑言がまるで嘘であったかのような、連日の紹介報道の転身ぶりは視ていて、いささか白けるものの、彼らも一般庶民の動静には勝てない、ということだろう。今、万博の悪口をなおも言い募るのには、余程の信念がいる。ま、いろいろなアクシデントはあったが、あとわずか、無事に終えてほしい。

さて昨今、様々な競技が人気を博している。野球、ゴルフ、大相撲は言うに及ばず、陸上やスケート、卓球なども、知識豊かな渋い?ファンに支えられて、文化国家ならではの盛況ぶりだ。それらで活躍するのは、練習に練習を重ねたうえでの選ばれし人々なのだと、改めて感心する。野球などは男子なら小学校のときから実際に競技としていそしんできた人も多いが、プロになれるのはごく一部しかいない。勿論、あえてスポーツとして楽しむことだけを選んだ人がほとんどだろうが、プロの野球選手の能力は卓越している、と聞いたことがある。生まれつきか、精進の結果かは難しいところだが、プロアマの差は大きい。ゴルフ、大相撲にしても、恵まれた体もあるものの、プロとして通用するにはやはり並みの練習量ではないはずだ。体、センス、そしてやはり根性だろうか。根性には「飽きない」という要素が大きく占める。来る日も来る日も繰り返し繰り返し、練習を重ねることができる、ということだ。

一方で、プロアマの差が無くなっているのでは、と思えるジャンルもある。歌の世界では、今や、プロの作曲家、プロの作詞家の存在が伝わってこない。優れた音響機械の存在やAI機能の利用で、曲を作れる時代だ。その曲が人の心を打つかどうかは別にしても、実際にそういう曲が多くを占めている。以前は、その曲を聴いて背景のストーリーを想像することが出来たが、今は、観念の世界が多く、感情そのものの言葉の羅列なので、頭の中に風景が浮かび上がってこない。国民的ヒット曲が出ない、と言われる所以だろう。だれもが口ずさみ、心に残したいと願う曲はもう出て来ないかもしれない。昭和の名曲が今も、愛される理由がよく分かる。

人間の能力自体が上がっているから、ますます、プロアマの差は狭くなるだろう、という意見もある。時代が違うのだ。メディア界にしても、テレビをしのぐSNSも見かけるようになった。しかもリアルタイムに提供される。が、しかし、先に述べたスポーツ界でのプロフェッショナルな活躍を見るにつけ、そこに歴然とプロとアマの差を感じ取れるのは、とてもうれしい。           2025年10月1日  間島

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顧客満足の複雑さ 201(情報の多さは是か非か)

     顧客満足の複雑さ 201「情報の多さは是か非か」 

本題とは関係ないが、先日、久々に百貨店の一階に入り込んだ。入り込んだ、というのは15分ほどの時間つぶしが目的だったからだ。そして2分後にはそこから逃げ出した。あれほどの強烈な臭いが、フロア中に蔓延しているとは予想もつかなかった。その百貨店の一階は、ほとんどがインバウンド向けの化粧品売り場で埋め尽くされ、強い刺激臭もさることながら、客待ち顔のスタッフのあまりの多さに、買う目的もなしにぶらつく勇気を持ちあわせなかったからだ。その百貨店の上階レストラン街は常に客であふれ、活況を呈しているのに比べ、百貨店の顔ともいうべき1階の、閑散とした風景と不快な臭いは、何かが狂っていると思わざるを得なかった。来年も再来年も変わらぬ風景として定着しているのだろうか。

さて、本題の「情報」は、どのような情報であれ、かつてないほどに蔓延していると思う。特に、グルメ関連の情報は、テレビやSNSをはじめとして、目にしない日はないほどに、あふれている。そこで目にし、耳にする情報は、美味しい店紹介、という単純なものではなく、コスパ最高、とか、顧客満足度高し、などの評価が多い。かつては飲食店関連の専門家のみが発する評価用語であったのが、一般消費者が当たり前のように口にする。それ自体、決して悪いことではないが、何がどうして、コストパフォーマンス(費用対効果)をあげているのか、どこに満足度をあげる要因があるのか、の、ほり下げた視点がなく、ただただ、美味しくてボリュームがあり、安いのが、評価に結びついているように思える。客単価は若干高いものの、それに見合った料理内容と上質な接客やインテリアを詳細に紹介している番組を見かけることは少ない。局スタッフのレベルでは、太刀打ちできないからか?と思いたくなるほどに、テレビは庶民の味方としての情報にあふれている。お笑い芸人がテレビで重用される所以と、根っこの構図は同じだ。 

最近、タイパなる言葉も耳にするが、それがタイムパフォーマンスのことだとは知らなかった。時間対効果の略語で、費やした時間に対してどれだけの満足度が得られるか、という意味だろうか。まさに“時は金なり”の現代版用語だ。店側にとって、難しい時代になった。まず情報で落とされ、コスパで落とされ、タイパで落とされる。2024年の飲食店の廃業率は5,6%と他業種と比べ高め推移になっている。また開業後1年以内に約30%が閉店。3年以内に50%が閉店する。結果として10年生存率は30%未満の厳しい業態だ。勿論、閉店の理由は情報の影響だけではなく、様々な要因がからんでいる。そして、新たな飲食店が次から次に出店する。いやがうえにも、話題を集めることが、店の盛衰に大きな影響を及ぼす昨今、今後ますます、世界は情報であふれ、そして立ち止まって吟味・咀嚼することなく、大きな流れに飲み込まれてしまうのではないかと危惧する。情報の多さが、人の幸せにかならずしも結びつくとは限らない、ことの現実も確かにある。       2025年9月1日 間島

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顧客満足の複雑さ 200(違法ではないが不均等)

顧客満足の複雑さ 200「違法ではないが、不均等」 

データというものは、その出し方によって、大きく認識が異なるらしい。らしい、というは、数字の結果を正確に分析することは、かなり難しいからだ。かくいう自分もめっぽう数字には弱いので、えらそうなことは言えない。が、しかし、なんとも姑息な数値を出してきたものだと感心したのが、厚生労働省の説明だ。参院選の投票前に、SNS上で、外国人への生活保護は違法なのに、簡単に多くの人が受給している、といった投稿が出回り、それに対して、厚労省が明確に否定した。 

生活保護法は適用対象を「国民」としているが、人道上の観点から、厚労省は平成2年に外国人に関しては対象者を永住者らと明示した。そして平成26年の最高裁判決を経て、現在では自治体の裁量で外国人に保護費が支給されている。なので「外国人への生活保護が違法というのは間違い」と明言し、しかも2023年度の生活保護受給世帯主が外国人のケースは、全体の2.9%だったとした。数値をみれば多くはないというニュアンスだ。しかし様々なデータがある。2023年の外国人永住者数は約90万2000人で、日本人口約1億2340万人の0.73%だ。一方、外国人の生活保護受給世帯は、全体の2.9%というのは、日本人の約4倍以上の確率で、外国人が受給している、ということになる。 

ちまちまと細かい数字を持ちだしたくはないが、あまりに姑息な表向きの数字で、国民を納得させようという、役所気質がなんともやるせない。つまり、現在のところ、違法ではないが、日本人の4倍受給という現実がそこにある。支給比率が世帯主比率なので、2人家族なのか、6人家族なのかで随分、全体の人口比率とは乖離があるのは認めるとしても、日本の役所の出す数値は、実に巧妙に選ばれ、そして姑息に満ち満ちている。 

訪日外国人観光客は日本経済に恩恵をもたらしていると思うが、日本百貨店協会の最新情報では、今6月の訪日客による免税売上高は、前年同月比40.6%減の392億円となったという。これで前年比減は4か月連続。訪日客数は増加する中、百貨店の免税売上には連動しなくなった。環境でもビジネスでも、財政上でも、訪日外国人増加は、もろ手を挙げて歓迎すべきなのか、難しい局面を迎えているのかもしれない。 

2025年8月1日 間島

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顧客満足の複雑さ 199(ようやく出てきた正論)

顧客満足の複雑さ199「ようやく出てきた正論」 

新聞のオピニオン欄を読んで、強く同感したのは何か月ぶりだろうか。かなり大袈裟ではあるが久々であるのは事実だ。その内容は、産経新聞の6月16日付けのオピニオン欄のもので、見出しは「災害激甚化はフェイクニュース」。内容の概略は「災害が頻発化しており、それは地球温暖化のせいである。よって脱炭素が急務だ、といった報道は完全な嘘である」というもので、その根拠をきちんと理論的に説明したうえで、「毎年何兆円も脱炭素に投じるはやめ、本当の防災対策に必要な予算を投じるべき」と結んでいる。全くもって正論だ。

そもそも地球の豊かさを左右する陸上植物の光合成には水とCO2が不可欠であり、その他生物の生存の基礎を植物が握っているのだから、CO2の恵みを抜きにすべての命は生存できないということだ。良く分かる。本格的ハウス栽培では、内部のCO2濃度を外気の3~4倍にまで上げ、作物の生育を速める。大気に増えるCO2は地球の緑化を進めるということだ。ヒステリックに叫ばれるアマゾンの森の削減は、人間による森の伐採の結果であって、CO2増加の結果ではない。脱炭素を念仏のように唱えることによる環境問題は、巨額の利権をある国や層にもたらした。多くの愚かなメディアもご追従的感覚でしか物事を見分けられない。

日本に限ってみても統計が取られだした1951年から74年間、台風の数は各年で上下するものの、ほとんど変わっていない。年間雨量も至近の10年間は多くなっているが、1950年代も多かった。地球を馬鹿にしてはいけない。地球は人間などに左右されはしない。自然は気まぐれで時として荒れ狂うものの、大きな恵みをそこに生きるものに与え続けている。大雨には治水が、大風や地震には堅牢な建物が、もっとも危険を回避できるのは、世界各地で発生する自然災害の被害状況をみても明らかだ。ならば何兆円もCO2削減に費やす愚は避け、役立つ防災対策に費やすのがまともな考えだろう。かつて“コンクリートから人へ“と、格好をつけた日本の政治家がいたが、その方には是非、川のそばの自然あふれる場所で葉やつるで造った家に住んでいただきたい。

   2025年7月1日  間島

 

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顧客満足の複雑さ198(何をもって成功とするか )

     顧客満足の複雑さ198「何をもって成功とするか」 

大阪・関西万博に行ってきた。一言でいうなら“一度は行くべし”だ。一度ならず二度、三度と足を運びたいのだが、手間と負担を考えると難しいかもしれない、というのが本音だろうか。平日の曇天日だったので、8万人前後の入場客数だったらしいが、それでも場内は人であふれている感が強かった。東ゲートへの地下鉄の道程は万博へ向かう人の波で、随所には誘導のための案内係りが配置されており、日祝日の混雑ぶりはいかほどかと案じられた。

その後、別用で万博への主要路となる地下鉄を平日に利用した際も、行き交う人の多さに驚いた。万博がらみの利用客だ。万博開催中は昼夜共にずっとこのような状態が続くに違いないが、協会が希望想定する来場者数には1日あたり15万人超が必要で、望ましい来場者数を達成する可能性はどうなのだろう。経験した8万人のざっと2倍ほどの入場者がいる状況は想像しただけでうんざり感がある。希望来場者数は万博として最終利益が出る(残せる)ラインなのだと思うが、そもそも今回の万博は諸般の事情で経費の上乗せを余儀なくされた。よって儲けの可能性がせばめられたのは理解できる。収入と支出の単純計算で利益を出すのは大変だろう。マスコミの極めて意地の悪い論評が目に見えるようだが、今のところ、万博紹介記事であふれており、入場者数も徐々に上向きに推移しているらしい。 

場内の大屋根リングを一周したが、よくこのようなリングを創ったものだと感心する。素人の発想ではとても思いつかない。もしもこのリングが無かったら、しまりのない会場になっていただろう。リングは会場を囲い込み、上部の歩道からは会場と周辺の海を同時に一望できる。一周に2キロほどかかるが、変わりゆく眺望に飽きはこない。ただ、まだ先が長い期間中に改善すべき点は多くある。夜間券のより割安化と時間拡大が望まれる。夜間イベントのさらなる充実も集客に役立つはずだ。そしてもっとも改善すべきは予約システムの簡便化だ。コンビニで購入した入場券のシリアルナンバーで、スマホやパソコンからパビリオンの入場予約を可能にすべきだし、入場ゲートをそれで通過できるQRコードを最初から付加できるはずだ。何故このような厳格な予約システムが取り入れられたのか理解に苦しむ。 

今回の万博は何をもって成功と呼べるのだろう。収入と経費、いわゆる単純なプロフィット&ロス計算では難しいかもしれないが、バランスシート感覚では成功すると思う。それは人の満足感と充足感と記憶が資産として上積みされるからだ。数量で推し量れないものが残っていく。数値でも鉄道、百貨店、宿泊施設等の売り上げ増加に大きく貢献するのは確実だ。そして大阪のお荷物エリアであった夢洲の未来が、後に続くIR(統合型リゾート)やスマートシテイの構築によって開かれたのは確かで、その意味でも前哨戦となる万博は開催した価値があるのだろうと思う。文句を言うのはたやすいが関係各者の労をねぎらいたい。

2025年6月1日 間島

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顧客満足の複雑さ197(これこそ顧客不満足 )

    顧客満足の複雑さ197「これこそ顧客不満足」 

関西大阪万博の入場券をローソンで購入した。Loppi端末機を相手に、何とか希望日の券をゲットできてやれやれと思ったが、良く見るとそれは引換券で、当日会場のゲート前の引換所で本チケットに変えなければ入場できないらしい。本チケットとは何ぞや?と調べてみたら、QRコード付きチケットだという。当日並ぶのが嫌なら、万博専用ネット画面での手続を経ねばならない。完了した暁には、3回の日時変更が可能となり、パビリオン予約もパソコン画面やスマホからできるらしい。その段取りは一応画面上で説明してあるが、今までネット上での手続きでスムーズにいった試しがない。ある知り合いがその手続き完了までスマホ画面で三日間もてこずったと聞いておじけづいた。で、たとえ当日並んでも、そのままの引換券で行くことにした。不思議でならない。どうしてシンプルに、コンビニで売るチケットでそのまま入場できるようにしないのだろう。個人情報を得るためか?などと勘ぐってしまう。そのような二重手続きが何故必要なのだろう。まさに顧客不満足の極みだ。 

で、思い出した。コロナの時期、旅行クーポンなるものを、京都府と大阪府からもらったことがある。京都のそれは、帰りのサービスエリアでそのまま簡単に使用でき、そのお得感がありがたかったが、大阪発行クーポンはサービスエリアでは使えず、近辺や帰路でも使える店がなかった。しかもスマホからそのクーポンのQRコードを読み取って電子クーポンに変換せねばならなかった。使える店がないのにと、バカバカしくて破いてしまったが、その不親切さに驚いた。大阪府民として、忸怩たる思いをした。一体、どんな人間が担当したのかと。万博などは、多くの人が気楽にそしてスムーズに来てくれて、はじめて万博といえる。混雑を避けるための、ただその一点で、このような発券二重システムを考案したのなら、ご苦労なことだ。混雑を避ける発券方法など、子供が考えてもわかる。一日の発券数を集中コンピューターで管理把握すればよいだけの話だ。パビリオン予約は専用の画面で受け付ければよい。 

あとしばらくは日本で開催される国際万国博覧会は無いだろう。その意味ではやはり今回、足を運びたいという人も多いはずだ。もっと面白く楽しいテーマパークはあるだろうけれど、その時代ならではの万博経験は記憶の中に確実に刻まれていく。さてはて当日、どのくらいの時間、並ばねばならないのか予測不能だがシンプル イズ ベストは、まさにベストの中のベストであるべきだ。複雑化するほうがエラクみえる、などとまさか関係者等が考えてはいないと思いたいが、真の顧客満足を官に求めるのは無理なようだ。 

2025年5月1日 間島

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顧客満足の複雑さ196(大いなる喪失 )

      顧客満足の複雑さ196「大いなる喪失」 

作家の曽野綾子さんが2月28日に亡くなられた。あと数年はお元気で執筆を続けられるだろうと思っていたので、享年93才という長寿にもかかわらず、残念の言葉しか出ない。人に対する、ことさら貧しい人たちに対する目線の優しさは時に痛みを含み、言葉だけではない実践に基づく論調は、身を引き締めさせる厳しさをも内包し、勝手弟子を多く作られた。自分もその一人だ。なので勝手に、先生と呼ばせていただく。今、先生の死を受けて、朝日新聞のネット版に、「右派の論客」と形容していたのが、あまりに朝日新聞らしいと感心していたのだが、二日後には「保守の論客」と言い変えられていた。どういう成り行きで変わったのか、知るよしもないが、右派、と決めつける方が、素の朝日らしかったのにと、ある意味残念ではある。 

先生の著書は少なくとも30冊は読ませていただいた。40年もの長きにわたって、海外で活動する日本の神父やシスターたちを支援するNGO活動「海外邦人宣教者活動援助後援会」の代表を勤め、その間、日本財団の会長を7年間勤められた。どちらも無給であり、それら活動に関するエッセイが多い。なかでも実際に足を運んでのアフリカへの援助にまつわる数多くの事象を日本に関連づけた主張は、厳しさを含有せざるを得なかったのだろう。それほどに、アフリカの絶対的貧しさをその目で見た人は多分、先生を置いていないだろうと思われた。日本の貧しさは本当の貧しさではないと。その厳しい視点が時として反発を招いたこともあるようだが、良く読めばわかる。叱責の中に含まれる限りの無い慈愛と人生に対する深い哀しみが軸として燦然とあることを。 

先生は口先だけの人道主義者を嫌っておられたように思う。優しい言葉ならだれでもいえる。正義など、人の数ほどにある。そういう意味では、世渡り上手ではなかったのだろう。ただ現実に自費で何度もアフリカに足を運び、昭和大学の医師たちとともに、口唇口蓋烈の人たちに無償で手術を施すという行動など、普通はできるものではない。医療に見捨てられた人たちを目のあたりにして、日本がいかに幸せの中にいるかを伝えられた。その鋭い切り口と、相反する深いやさしさが好きだった。ただただ、著書を読んだだけの一介の読者だったが、これからあの一見矛盾する複雑さの中の、単純明快な朗らかな文章に出会えない寂しさがつのるばかりだ。

2025年4月1日 間島

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顧客満足の複雑さ195( 機械化によって失うものの大きさ ) )

顧客満足の複雑さ195「機械化によって失うものの大きさ」

 レストランの席についたとたんに「ご注文はこのQRコードからどうぞ」と指示?された。それを聞いた同行3名のうんざり顔もさることながら、堂々と店側のシステムを客側に強いて負担を増やすという行為が徐々に浸透している現状に驚く。その店は確かに、ボリュームがあってまずまずのリーズナブル価格という若者が喜びそうなイタリアンレストランではあるが、場所柄と雰囲気からみても落ち着きのある店で値の張るコース料理も何種類かあり、年配者も結構多かろうにと、QRコードからのオーダー制に多少の違和感を持った。そのシステムはすでに経験済みだが、同席のだれかに役目が集中し、そしてだれもがその役目を嫌がる。当然だろう。同席客が多ければ多いほど、その人が携帯電話とにらめっこして、人差し指を駆使するはめになる。気の毒に思うが、誰もその役目を担いたがらない。各自がそれぞれ自分の携帯電話から注文すればよいのかもしれないが、その景色というのもなかなかシュールすぎて、とてもではないが、ゆっくりと会食を楽しむ雰囲気にはならない。              

不思議で仕方がない。客とのコミュニケーションチャンスを何故、取り逃がしてしまうのかと。オーダー受けはスタッフと客との最初の接点であり、信頼関係の構築に大きな力を発する。さりげなく本日のおすすめを進言したり、量的なアドバイスも含め、客にとっての最適なメニュー作りに加担するという、重要な役割がオーダー受けなのだ。メニュー名だけでは内容がわかりにくい料理もある。ボリュームはどうなのか、何人くらいでシェアできるのか、味の特徴は?とかを客に伝えて、うまく店側の望むべき方向に誘導するのが、オーダー受けの醍醐味なのであって、それを放棄するとは誠にもったいない商法だと思う。結局、携帯電話からのオーダー受けは、人力の欠如の結果なのだ。アルバイト中心で常に人手不足のなか、教育する手間も時間もない、という現状が機械化を促進せざるを得ないのだろう。その点、厨房とフロアを夫婦や家族で切り盛りしている店は、QRコードからどうぞ、はまず無い。どんな料理を夫(妻)が作っているのか熟知している妻(夫)は、客に対して堂々とおすすめ料理を進言できるし、コミュニケーション力がどれほど店の売り上げに貢献できるかを知っている。 

その昔、神戸で評判のヌーベルシノワ(新中華)のレストランを数名で訪問したことがある。メニューブックにはコースメニューが無かったが、フロアを受け持つマダムによって各客の嗜好やボリュームバランスを取り入れた魅力的なコースが即興で組み立てられた。もう客は生徒であった。後にも先にも、そのような店に出会ったことはない。あれは夢だったのか、と思うほどに見事なフロアサービスだった。

 2025年3月1日 間島

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顧客満足の複雑さ194(楽しい○○)

                                顧客満足の複雑さ194「楽しい○○」

「楽しい日本」が、内閣を牽引する現首相が示した、年頭に当たっての国民へ向けた基本方針らしい。これに関しては、すでに辛辣な論調が多く出回っているが、なんとものんきで的外れな言葉を選んだものだ。「楽しい」は、数値である程度評価比較できる「豊か」とか「強い」と比べると、あくまでも主観に基づく動詞であり、個々の人が楽しいと感じるかどうかなど、他人、それも国にわかるわけもないし、完ぺきに個人的な感覚だということに、気づいていないのだろうか。気づいていないのなら「気味が悪い」の一言に尽きるし、気づいて取り上げたのなら「国民に責を負わせる卑怯さ」がかいまみえる。率直に言って、文化文明が発達すればするほど、「楽しい」感覚は個々によって複雑さを増す。その他人には測ることのできない感情を目的にする幼稚さに、脱力する。これは、まともな国のまともなトップが発信する言葉ではない。まだ、トランプ氏の「アメリカファースト」のほうが、賛同するかどうかは別にして、余程、具体的でわかりやすい。 

と、ここで最近、経験した飲食店での些事を思い出した。「楽しい飲食店」に幸いにも立て続けに出会ったのだ。まず、年末に予約した中華料理店から一方的に、店側からキャンセルされるという衝撃的な出来事のあと(なんでも、当方が予約した4日後に20名の団体予約が入ったので、席がなくなった、とのことだった)、急ぎ、別の中華料理店に予約を入れて席数を確保したのだが、当日は満席ながらてきぱきとフレンドリーな対応に、気分よくミニ忘年会を終えることができた。それにしても先約をほごにする飲食店は初体験だ。年が明けて訪問した日本料理店は、予約時の対応もさることながら、当日の接客も料理も思わず笑顔がこぼれる丁寧さで、しかもリーズナブルだった。「楽しい飲食店」は、ひとえに店側の基本方針と客へのリスペクトによるもので、かれらは客に「楽しい」を強いることはないし、確かめもしない。真摯で具体的な総合的方針の遂行が、結果に結びつくということだ。 

「楽しい」といえば、訪日外国人客の楽しそうな雰囲気が、ユーチューブなどに多く拡散されている。時間と費用を作りだして訪問したのだから、目いっぱい楽しんでいただくのは吝かではないが、実際に繁華街や交通路では、今までにない外国人のあまりの多さにたじろぐ。耳に入ってくるのは多種多様な言語で、暑かろうが寒かろうが、元気そのものである。時代は変わったものだ。いまのところ、人気の都市や観光地に集中しているが、交通網の発達している日本のあらゆるところに外国人観光客の姿が見えてくるだろう。47各都道府県がそれぞれ独自の特質を持つ日本は、飽きることが無い魅力を備えている。彼らを受け入れる全国民に還元するためにもそろそろ、インバウンドからの「お楽しみ税」なるものの出番を期待したいところだ。

              2025年2月1日  間島

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顧客満足の複雑さ193(元には戻れない?ハリウッド)

顧客満足の複雑さ193「元には戻れないハリウッド?」 

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。 

今年も国内外含めて、混乱・騒乱は避けがたいだろうが、そろそろ人類も正気を取り戻してもいいのに、と思う。ならずもの国家は言うに及ばず、国連をはじめとする一応の権威?ある組織さえも、英知と賢明さを保っているとの信頼を置きにくい。そこはやはり、物言う大声の意見が重視されがちだし、また少数派であっても、人権・平等に関する事象であれば、ズカズカと我が物顔で人の庭に入り込んでくる。何を言っても反応しない国・組織に対しては、素直に何も言わないずるさといやらしさがある。そろそろ、経済と安全保障以外の世界組織は、ガラガラポンと解体・再生してほしい。 

さて、お正月といえば、必ず映画館に足を運んでいたのを思い出す。それは中学生から高校生まで続いた。まだ日本映画が若者を惹きつける魅力ある作品を増産できていない時代で、もっぱら観るのはハリウッド映画だった。英仏独伊作品も上質で魅力ある作品が多かったが、スケールと圧倒的な面白さでは、やはりハリウッドがダントツだったように思う。多くの資金を投じての活劇は観るものを飽きさせなかった。西部劇などは幅広い年齢の支持を集めていた。映画の背景をより知りたくて、「西部開拓史」などの本を読み漁った記憶がある。日本での時代劇のようなものだ。が、しかし、日本では時代劇が映画・書籍ともに現代もゆるぎない魅力と支持を保っているのに対し、西部劇はほとんど目にしなくなった。確かにアカデミー賞候補の条件として、出演者に多様性を持たすこと、または制作側のスタッフが多様性に満ちていること、などが規定されているようだが、昔の歴史劇などを完全に否定しているわけでもなさそうだ。それなら何故、西部劇が衰退したのだろう。勧善懲悪のわかりやすい、素直に面白い映画が多かった中で、ネイティブアメリカン、つまりインデアン虐殺の歴史を抜きにして語れない作品が多かったのも事実だ。つまりアメリカ歴史の汚点が西部劇に集約されているのかもしれない。ネイティブ支配のみならず、奴隷制度も消し去ることの出来ない歴史的事実で、それらを背景とせざるを得ない西部劇が、衰退していったのも、アメリカの事実なのだろう。 

時を経ても映像化される忠臣蔵やその他、魅力ある時代歴史劇を次々に楽しめる日本という国に改めて誇りを持ちたい。そこには、今の感覚でしか物事をとらえられない矮小で卑小な規律はない。勿論、変質はしていくだろうが、悠久につむいできた歴史を、現代において振り返ることができる自由を、これからも楽しみとしたい。 

 2025年1月1日 間島

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